inserted by FC2 system 天皇賞が果てて
                            天皇賞が果てて

 天皇賞の翌日、ふぬけた僕は街をさまよった。なにもやる気がしない。お
手上げだ。  いろんな人に天皇賞のことを聞いてしまう。君の仕事場じゃど
うだった?  あなたのところは?  Sガワ急便のおじさんにまで聞いてしまっ
た。あ、おたくはギャンブル禁止でしたか。いったい僕はなにを聞きたいの
だろう。

 競馬週刊誌を買う。新聞をいくつも買う。天皇賞の記事を捜して読む。胸
に触れるものはなにもない。いったい僕はなにを読みたいのだろう。

 そして、レース前夜のTVで「中山大障害に出てきてもオグリキャップを
本命にする」と宣言し、僕を感動させた作家の天皇賞観戦記を見つけた。

『いま私はとても哀しい』

 ・・・・・・・・  これが僕の探していた言葉だ。誰かがこれを言ってくれるはず
だと。このかなしみを、なぜ誰も言わないのかと。やりきれなかった。  と
てもかなしい。いま僕はとてもかなしい。同じ気持ちの人びとがそれぞれの
場所でかなしんでいる。オグリキャップの敗戦に。彼が喋れない分までも、
僕たちはかなしんでやれないかな。みんなでかなしんでやれたらば。

                  =====*=====*=====*=====*=====*=====

 レース前、新聞が飾り立てた大見出しに僕は憤った。『オグリはもはや怪
物ではない』。よくこんなひどいことが言えるな。今までオグリに感動させ
られた僕たち人間に、どうしてそんな言葉が吐けるのだろうか。ひどすぎる。

 オグリ、オグリ、犠牲者よ。いつも僕らに応えつづけ、それが叶わなくな
れば人びとは嬉々として別な馬の馬券を買うのだ。そんなことが許されるだ
ろうか。僕たちにお前に対する負債はないのだろうか。お前はその身体にたっ
ぷりとつけを、誰にも払えないつけを貯めてしまったというのに。

 勝ってくれ、オグリ。もう一度、再びみたび、お前の走りで奴らのハナを
あかしてやってくれ。僕は祈りながらレースを見つめたのだ。

  ふう。

  有馬記念のときほど騒がれないのが不思議だ。どうしてだろう。だんだん
みんながオグリの敗戦に慣れてきてるのか。でも僕はこんな悲しみには慣れ
たくないな。慣れちゃいけないと思う。そんなに志しの低い人間になりたく
ない。夢破れることになんか、永久に慣れちゃいけないのだ僕たちは。

 僕たちはみな、なにごとも簡単にあきらめてしまう。簡単に見切って、低
きに流れて、イージーに、弱く。だがどんな馬でもゴールまで走る義務があ
るように、本当はぎりぎりまで僕たちは戦わなくてはならないはずだ。あき
らめや、絶望や、不信や、裏切りや、誤解や、恐れや、虚しさや、不満足や、
妥協や、愚痴や、泣き言や、その他いろいろと。今はまだあきらめるときじゃ
ないと、東京競馬場に向かいながら僕はそう決めたのだ。そして打ちのめさ
れて。この始末だ。だけど自分のことなんか、なんだって我慢できる。

 これが競馬だ、と誰もが言う。そんなことは分かってるよ。だけど、信じ
ることのよろこび、奇跡を愛する胸、そして許される夢、そんな善きものを
なくしたときに泣けないくらいなら、僕は競馬なんか見やしない。

 観衆はあのとき、勝った騎手にまたぞろコールをはじめようとした。簡単
すぎる。オートマティックだ。勝った馬とその騎手にはもちろん拍手をおく
ろう。あっぱれだ。ビューティフルだった。だけど彼らも失望したはずだよ。
オグリが来ないゴールラインに。あなたがたは平気なの?  あのオグリを見
て何も思わないの?  僕には理解できないよ。沸き上がったコールにも応え
ない、あの騎手を僕は尊敬する。彼こそが本当の、馬の友人だ。

 思うのだ。強いということは、なんてかなしいことなんだろう。最高であ
るがゆえに最大のかなしみに遭うのだ。むごい。競馬とはなんと残酷なもの
なんだろうか。オグリ、僕はたまらなかった。ほんとにたまらなかった。
「たとえ三本脚でも」、僕はお前に勝って欲しかった。お前が勝つことだけ
がそんな競馬の原罪を救う、唯一のドリームだったのだ。お前というかけが
えのない夢。僕たちが持つことのできた、ただひとつの奇跡。どこまでも僕
たちを許し続けた、信じることのよろこび。だけど、・・・・・・ここまでなのか。

                  =====*=====*=====*=====*=====*=====

 翌日、TVでまた天皇賞がやっていた。「オグリを信じてる」と言い切っ
た女の子をカメラが追う。上がり3ハロン、もう彼女は泣いている。彼女は
僕とおんなじだ。あの日オグリを信じると決めた者の顔だ。

 ゴール。彼女は勝った馬を見ていない。オグリだけを追っている。泣いて
いる。彼女と僕はほんとうにおんなじだ。オグリだけを見つめていた。敗者
が下がる馬道に向かう、オグリだけを見ていた。子供みたいに泣き出してい
た。

 いま僕はとてもかなしい。オグリ、どうしたらいいんだろう。分からない
よ。お前の奇跡はもう終わってしまったのか。あんなに素晴らしい季節はも
う失われてしまったのか。それともお前はあと二戦を輝いてくれるのか。僕
たちはそれを望んでもいいのだろうか。どうしたらいいんだろう、オグリ、
僕にはもう分からなくなってしまったよ。
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